チーズ・その伝統と背景 |
『學鐙』(丸善)
第99巻 第6号(2002年6月号)P.42「書評」に掲載 |
食生活の多様化と何度かのワインブームを背景に、ここ数年チーズの人気も急激に高まり、チーズ好きの増加とともに数々のチーズの本が出版されている。それぞれのチーズについての美味しい食べ方や、味の説明を加えた本、チーズ料理の美味しいレストランを紹介した本、ヨーロッパのチーズ食べ歩きの紀行文など、さまざまであるがその共通点は、チーズそのものを解説したものと言える。もちろん発酵食品としての科学的な学術書や、人文地理の分野での学術書も出版されている。しかし、本書はこれまで出版されたどの本とも性格を異にしている。
クラシカルな表紙のデザインと重厚な装丁を見て、難しい学術書と思われるかもしれない。確かに内容は濃く、チーズそれぞれについて、驚くほどきめ細かい伝統的製法や、作られた土地の詳しい説明がなされており、学術書には違いない。ところが本書は著者の長年にわたる経験や研究、「あるがまま」の見聞に基づいて、難しい部分もしっかり噛み砕かれている。文章の内容が消化しきれない人には、“註記”という良く効く消化剤がたくさん用意されているから心強い。はしがきの冒頭で、「先端技術の買付け」が仕事と自己紹介されていているように、著者は、日本のナチュラル・チーズ製造技術振興の第一人者である。あの“さけるチーズ”ストリング・チーズの開発に中心的な役割を果たした実績がそれを物語っている。ご記憶にあるだろうが、この“さけるチーズ”は社会現象を引き起こしたほどの大ヒット商品となった。スルメイカのように縦に裂ける、全く新しい形のチーズの楽しさは、穏やかな味とあいまって、幼稚園や小学校の児童の間でも大評判になった。幼稚園やお弁当のある一部の私立小学校で、お昼の時間にそのチーズを持ってきた子は、一躍ヒーローになり、持っていない子に「何でもあげるから、取り換えて!」と追い回される事になった。そんな光景がまたたく間に広がって、お弁当時間の教室は立ち食い食堂の状態になった。しかも“追いかけっこ付き”である。これに困ったある私立小学校では、異例の「ストリング・チーズ禁止令」が出たほどだった。このエピソードでもお分かりのように、著者は先端技術を熟知し、長い経験と群をぬいた技術力だけではなく、同時に豊富なアイディアも持ち合わせている。
たしかにナチュラル・チーズには、「持ち味の違う」二つの世界がある。一つは、気候風土と微生物の神秘的な働きにより、熟成という時間の中、それぞれのチーズが「味の方言」とも言える個性豊かな「旨み」の世界を創り出しているクラシック・タイプ。
二つ目は先端技術を駆使し、熟成期間を短縮させて親しみやすい、いわゆるクセのない味に仕上げ、中にはホイップクリーム的な「美味しい」味を表現しているニュータイプ。それぞれのタイプにこだわりを持ったファンも多い。
本書では伝統的な製法が一二〇種類以上ものチーズについて語られている。
クラシックタイプの味の決め手は「ミルクの質」と「熟成」にあると言われている。ヨーロッパのチーズ農家の人達は昔から「ミルクをいじめてはいけない」と言う。本来ミルクが持っている有用菌は、チーズ作りにとって大変重要なキャラクターであることが伝わってくる言葉だ。伝統的なチーズ作りは、原則としてミルクを“いじめる”殺菌はしない。じっくりと熟成させ、その頂点に達したものはタイプを問わず、熟成前の直接的な風味とはまったく違う味の世界を私達に体験させてくれる。チーズを噛み締め、体温と同一となったとき、その個性は最大限に発揮される。ジワッと口の中に広がるふくよかな香り、複雑でありながら透明感のある味わい、甘さをも含んだ喉越しの余韻。これこそが「旨み」であり、究極の醍醐味と言えよう。「チーズとは神様と自然がつくるもの、人間はそれに手を貸すだけ」、こだわりチーズを伝統的な製法で作る人達のロマンが伝わる言葉である。
これに対してニュータイプはと言うと、一八世紀の後半、イギリスで起こった産業革命が農業技術も発展させ、一九世紀初頭よりヨーロッパ各地でチーズの製造技術の研究が進められた事に端を発している。その後フランスのパストゥールにより画期的な低温殺菌法が開発された。チーズの原料乳の低温殺菌も可能になって、二〇世紀の前半には、乳の生産地から遠く離れたチーズ工場でも安全に製造する事ができるようになった。村単位で行われていたチーズ作りは工業化され、大量生産されるようになる。微生物のコントロール技術も進歩し、チーズに使われる微生物を純粋培養する事が可能になり、原産地以外でも同じ名称で品質の安定した安価な物が大量生産されるようになった。こうして先端技術を駆使したチーズの製造が始まったのである。二〇世紀の半ばには消費拡大に伴い、大工場による大量生産時代をむかえる。やがて世代交代の影響もあり消費者ニーズは「穏やかな香り、クリーミー(高脂肪)で滑らかな組織、低塩」の特徴を持ったニュータイプへと移って行く。漬物にたとえれば“古漬けより浅漬けがお好み”というようなもの。最近では熟成期間を二分の一に短縮させる技術も実用化されつつあるとも聞く。
しかしこの所、冒頭で述べたように、日本でもワインをたしなむ人が増え、多彩なワインの味にあうチーズを求めるようになるとともに、消費者の嗜好の多様化によって、チーズの世界でも原産地が明記された伝統技術でつくられた個性豊かなチーズが見直されつつある。著者は、その「伝統技術の探究」のため、奥様をナビゲーターにヨーロッパへ旅に出た。
一般人が気楽にチーズ工場や牧場やレストランを回ってきたのとは違い、毎年七週間ずつ、六年間、のべ走行距離三万キロにもおよんだ。道路地図片手に同行された奥様も著者と一緒に共感できるすばらしい人なのだろうと思う。そんなお二人がそこで見たもの、聞いたもの、触ったもの、味わったもの、感じたもののすべてが、この一冊の本にぎゅーっと凝縮され、豊富な知識で整理されて詰まっている。読み進むうち「そうか!そうだったのか!」と目から鱗が落ちた感がする個所にしばしば出会う事になる。
文章は敢えて文学的な表現を避けたのか、淡々として、物事をありのままに書こうとしている事がうかがえる。そこがかえって読む者の想像をも掻き立てる。著者の狙いがそこにあったのかどうかは不明だが……。
そのまま額に入れて、飾っておきたいほどおしゃれな絵も、著者が各国の博物館や図書館で見つけ出したものだそうだが、それぞれの場面や用具などを具体的にわかりやすくするためだけでなく、美術品として見るだけでも美しい。江戸時代の職人芸を受け継ぐ名人が「道具という物は、元来美しい物」と言っていたのを思い出す。機能を追及した無駄の無いかたちは、美しさを生むのかも知れない。本書に出てくる道具の挿絵は本当に美しいからである。
また、モノクロではあるが、写真の説得力にも著者の造詣の深さが感じられる。写真にうつし出せない、チーズ農家だけが持っている「勘どころという物差し」も見えるようだ。
本書の構成は第1章から第8章まで、チーズのタイプ別に記されており、それぞれの伝統的な製法や材料になる動物の乳の話、生産地の歴史、風土とのかかわり、景色、そこに住む人々の文化、生活、習慣までありとあらゆる著者の知識が網羅されている。今までにこんな詳しいチーズの書があっただろうか?一つ一つについての専門家はもちろん世界中にたくさんいる。しかし、地質学、動物学、人文地理学、植物学、気象学、有機化学、民俗学、言語学等々、数え上げればきりのないほど知識を兼ね備えた「凄い人」が書いたチーズの本はおそらく初めてだろうと思われる。そのため、美しいパッケージに入ったチーズしか知らなかった初心者はチーズ本来の姿を知る事になり、チーズに少しでもかかわって、学んだ事のある人にとっては、最高の教科書になるはずである。
さてここで、著者には全くの無断だが、本書の楽しい読み方をご紹介しよう。これはあくまでも一つの例であることをご承知置き頂いた上で試して欲しい。まず、本書を手に取ったらパラパラと写真や美しい絵を鑑賞する。「何の絵なんだろう」と思っても、まだ本文はおあずけ。ひたすら写真や絵の面白さだけを見る。次にはしがきをじっくり読む。著者と奥様の本書を書くにあたっての努力、苦労、楽しさなどを共に共感するに違いない。いよいよ本文だが、第1章のフレッシュチーズから順番に、などと思わなくても良い。本書は辞書のようにどの章から読み始めてもしっかり対応してくれる。ただし、一つの章はできるだけ一度に読むこと。折角まとめて詳しく書かれた物をバラバラにしては著者の努力が台無しになるというもの。「さあ、どの章から読もうか?」索引を見て好きなチーズから順番にでも良いし、挿絵や写真の気になったところからでも良い。ごく几帳面で、第1章から読まないと気持ちが悪いと言う人は、もちろんそれが一番。そして、もうひとつ大事な事は、著者が心をこめて入れた“註記”は後でいっぺんにまとめて読もうとしないで、その都度確認して行くこと。そうすると多少難しいことでも理解しやすいので、本文と“註記”のページを行ったり来たり。その上、マーカーを入れたり、ページを折ったり、最後まで読むうちに、さすがの立派な装丁の本もボロボロに……。そう、あとがきの方も忘れずに読んで頂きたい。きっと読み終えた内容が反芻されるに違いない。
(村山 重信 チェスコ株式会社取締役) |